2018年6月15日【Wake Up, Girls!の解散が決まった日】

   

この文章は2018年10月頭に書き起こし、C95(2018年冬のコミックマーケット)にて頒布した「ワグナー本」に寄稿したものを、一部加筆修正したものです。
当時の自分に、「hallelujahを掲げた奥野香耶さんが自らのブログを”座標軸を渡った先に”というタイトルで締めたよ。」と伝えたいです。


 

「ほら、だから俺の言った通りだろ?」
そう言ってやりたかった。そのために予防線を張ってきたのだ。
ある日の青山吉能曰く、「私たちのファンの中には評論家がいる」らしい。
少し揚げ足を取るような彼女のこの表現には正直、舌を巻いた。
だいそれた言い方ではあるが、ここで言う評論家とは「エモさ」を自分の言葉で昇華させたい面倒くさい人種のことを指す。
推しを語る際に、「尊い」、「無理」、「神」、これらの言葉だけで片付けることにもったいなさを感じる、そんな人たち。
そしてごく一部、その中から目の前で見たことを表現するだけに飽き足らず、あることないことを予想・推測する輩が出てくる。
そういった鼻で笑われるべき"評論家様"の名簿欄に、間違いなく僕も名を連ねていた。

「Wake Up, Girls!は解散する。」

2018年2月。
吐く息を追いかける遊びにもすっかり飽き、冬の老いをひたすら待つ季節、以前から僕の中で芽吹き始めていた"その予感"は、「ミルキィホームズ」の解散発表を引き金に一足先に開花宣言を迎えることとあいなった。
予感の根拠は「アニメ新章の放送が終わったから」というありきたりなものではなく、「Wake Up, Girls!」というコンテンツを取り囲む異様な雰囲気からだった。
彼女たちが紡ぎ続ける物語は日を追うごとに光量を増し、そこに向き合う僕の身体からは常にアドレナリンが溢れ出す異常事態。
要するに、彼女たちは桁違いにすごくなり続けていた。そのすごさをキープし続けていることに恐ろしささえ覚えた。
コンテンツは、終わる時が一番美しい。
そう信じて疑わない僕の目には、やはりこの頃の「Wake Up, Girls!」の限界を超えた美しさは、解散を思い起こさせるのにじゅうぶんであった。

そういえば過去に一度、僕は同じような経験をしたことがある。
数年前にファイナルライブを迎えた、μ's(ラブライブ!)を追いかけていた時のことだ。
終わることが決まってからというもの、彼女たちは人間の目では処理できないほどのまばゆさを見せ、最後まで駆け抜けた。
「命を燃やす」という言葉の意味を、僕はこの日初めて知った。

2018年3月。
東北ろっけんソロイベントツアーを終え、バスツアーへと乗り込んだ僕の心の中は、穏やかなものではなかった。
たぶんこのイベントの終わりにWUGは解散を発表するのだろうという予感があったのだ。
バスツアー終盤に行われた5周年ライブは間違いなく「Wake Up, Girls!」史上最高のライブであり、その時点で予感はほとんど確信へと変わっていた。
ゆえに、何事もなくライブが終わった時、僕は拍子抜けして間抜けな顔を晒してしまった。WUGからのヒザカックンを受けた僕は、まさに"評論家様"失格であった。
帰り際、これで少なくとも7周年まではイケるな、懲りずにそんなことを考えた。

2018年6月15日15時17分。
その刻は、突然やってきた。
その瞬間の一挙手一投足を覚えている。
仕事が一区切りした僕は、オフィスの椅子に持たれて缶コーヒーを開けた。眠気を飛ばすカフェインというまじないが、身体に染み渡る。
自分の指紋で彩られたスマートフォンを手に持ってロックを解除した僕は、画面下部のメールアプリに通知が来ていることに気づいた。
15時ちょうどに届いていたそのメールのタイトルから、すぐに「わぐらぶ」からのものだと分かった。
何気なく開いたそのメールを読んで、目の前が真っ暗になる。いや、本当に真っ暗になっていたのだろうか。しっかりと色彩を脳が認識していたではないか。
「目の前が真っ暗になる」という絶望の表現を編み出した人を、理不尽にも僕はこっそりと呪った。嘘つきめ。
文章を読むことを苦だと思ったことなんて一度もないのに、どうしてだろう、「解散」という二文字以外の言葉が全て脳みそを素通りしていく。
感情の枯れた僕は慣れた手つきでTwitterを開き、真っ先に検索バーに「解散」と入れる。悲鳴が上がっていた。

「なるほど」

高校受験生が解けない問題の答えを家庭教師に教えてもらった時に、理屈は分からないけれど分かったふりをするような、その場しのぎの薄っぺらい言葉。
その時の感情が全てこの一言に自動的に短縮され、手元のソーシャルネットワークに機械的に投稿していた。
思考が無と化して、そしてまたすぐに動き出す。バスツアーの時点で解散を覚悟していた僕にとって、「どうして」解散するのかは全くもって重要じゃなかった。それよりも気になるのが、「いつ」解散が決まったのかということだ。
なんせ、この前日には有給を取って「ワグナイター」で散々楽しんでいたというのに。5周年ライブの直後には、これ以上ないほどに心の準備をしていたのに。
こんな仕打ちはあんまりだと思った。発表のタイミングが、僕に取ってこれ以上ないほどに最悪だった。
皮肉なことに、"評論家様"の資格が自分の手元に戻ってきていた。

脳みそに両手を突っ込み、記憶を掘り起こす。
バラバラのパーツを無理矢理にでも僕の目の前に引きずり出す作業は、苦痛でしかなかった。
彼女たちは解散が決まってから、解散を決めてから一体、今までどんな気持ちでいたのだろう。僕が知りたかったのは、それだった。
彼女たちは一体、何を考えながら昨日の「ワグナイター」を過ごしていたのだろう。
球場での自己紹介の時、ワグナーのことを誇らしく語ってくれた時、一緒に声を出して応援している時、最後の深々としたお辞儀。「来年も絶対に行こう」、僕たちはあの夜にそんなことを語り合っていた。

脳みその中の僕の両手が、舞台「青葉の軌跡」を鷲掴みにした。
続編を期待してもいいのかも、そんな気持ちを抱かせてくれた素晴らしいあのステージ。
再びキャラクターになりきった彼女たちは、どうやって舞台に向き合っていたのだろう。

「Green Leaves Fes」。
「Run, Girls Run!」との初共演、その時にはもう、解散はほとんど決まっていたのだろうか。
ステージを広く使い、客席へと足を運ぶ演出は、間違いなくバスツアーの5周年ライブからの輸入だった。

ソロイベントツアーとバスツアー。
5周年ライブで彼女たちは確かに、「WUGとしてのこれから先のこと」を語っていた。
それはもちろん7人とワグナーの明るい未来のことを指していたはずで、解散を予感させるものは一つもなかった。
議論が重なることはあれど、少なくともこの時点で解散は確定していなかったはずだ。
ひとまず僕は、解散の正式決定は4月下旬であるという仮の結論を導き出した。
というよりも、そうであると信じたかった。

2018年7月。
解散発表後、すぐにメディアから切り離されたWUGちゃんに僕らワグナーは無力にも触れることができず、悶々に悶々を重ねていた中でやってきた「FINAL TOUR -HOME-」。
僕にとって解散発表からライブまでの一ヶ月は永遠かと思うほどの長さで、やっと、やっとまたあの7人に会うことを許されたのだった。
ただひたすらに、彼女たちに会いたい。会えればなんでもいい。彼女たちと向き合う時、いつだって"評論家様"だったはずの僕はもはや、そこにはいなかった。
「FINAL TOUR -HOME-」はPARTⅠからPARTⅢまで、7ヶ月間のロングツアーだ。
唯一考えていたことと言えば、前日リハーサルでお馴染みの曲を披露した彼女たちを見て、「〜PARTⅠ Start It Up,〜」は盛り上がる曲を中心に無難にまとめてくるのだろう、そんなことだけだった。

ライブが始まった。僕は、世界一の馬鹿だった。
度肝を抜く山寺宏一の軽快なMCに始まり、幕が上がって誰もが予想していなかった「SHIFT」のイントロが流れ出す。
見たこともない舞台装置でステージが彩られ、目の前にはテーマパークが広がっていた。

「ごめんなさい」

曲を聴きながら、僕の人生史上、一番深い土下座をした。
自分の顔が赤いのは、彼女たちからの強烈なビンタが効いたのか、己の恥ずかしさからなのか。

「Wake Up, Girls!」というユニットは、解散を発表した後こそ、本気だった。
もはや言葉で表現しきれないほどに、すごみが増していた。
彼女たちの紡ぐエンターテイメントの強烈なメッセージ性。
ライブに向けて何度も顔を突き合わせて考え続ける7人の姿が容易に浮かんでくる。
夢の国というエンタメの象徴を元に、「SHIFT」というクセのある曲をブチ込んできた彼女たちのしたり顔。
WUGちゃんのライブには、当たり前なことなんて一つもない。
なぜならば、演者であるはずの彼女たち自身が長い時間をかけてライブをプロデュースしているからである。
来年の3月まで、留まることを絶対に許さないという意思表示を叩きつけられ、僕は笑いながら涙をこぼした。

この子たちは、これほどまで、これほどまでにすごいユニットなのか。

彼女たちはそのライブで、意図せずうちに僕に宿題をよこした。
幕間ムービーの「花は咲く」の映像に、僕は驚愕した。
その映像は、3月ソロイベントツアーの時に撮影されたように見受けられ、そこに解散の二文字が絡んでいないとは言い切れなくなってしまったのだ。
「花は咲く」を撮影します、と言う彼女たちへの告知は、解散と絡めたものではないのか。
4月下旬という僕の結論、もとい願望が大きく揺らぐ。

2018年8月。
アニメロサマーライブという、WUGちゃんにとって大事な大事なステージ。
彼女たちはこの年、「アニサマには出られない」とスタッフから伝えられていたという。
この事実は、ワグナーしか知らない。
PARTIの市原公演でこの舞台にまた立てると発表された時、WUGちゃん全員が絶句し、そして泣き出すメンバーもいた。
アニサマは当たり前のように出られる場所ではない。忘れがちなその事実を、彼女たちは思い出させてくれた。
だからこそ彼女たちは全力でそのステージに向き合うことができ、唯一無二のライブを行うことができる。
ここでもまた、彼女たちらしさは存分に発揮され、僕らは一緒に泣いて、泣いて、泣き腫らして、
たぶんあの瞬間のWUGちゃんとワグナーは、世界で一番の幸せ者だった。

2018年9月。
追い詰められた夏休み終わりの学生たちが欺瞞に満ちた宿題を提出する時期に、僕の元にも宿題の答えが帰ってきた。
川崎でのファンミーティングにて、3月のソロイベントツアーに密着取材した「パンフレットURA」の発売が決定されたのだ。
この発表により、「花は咲く」の収録理由が「解散」を軸に提示されたものだと言えなくなった。
要するに、あの動画は「パンフレットURA」の企画の一環のために収録すると説明があれば、WUGちゃんたちにとって違和感はなくなるわけである。

そんな中、ふと、気づいたことがある。
そもそもなぜ、”評論家様”なんてものが生まれるのかという話だ。
特に「Wake Up, Girls!」というコンテンツではその発生率が顕著であるが、その理由は、とにかくWUGに触れるだけで当事者意識を植え付けられるからなのだと思う。
例えばライブの一幕だけを見ても、演者と僕らワグナーとのコミュニケーションの多さが尋常ではない。
そんなことを繰り返していれば、いつの間にか傍観者ではいられなくなってしまう。
そしてそこがこのコンテンツの大きな魅力の一つでもある。

「Wake Up, Girls!は、解散する。」

この事実を僕らは、どんな風に受け止めてもいいのだろう。

しかし一つ言えるのは、彼女たちはもう、そうやって結論を出したのだ。
終わりに向けて、全速力で走って、輝き続けているのだ。
これが彼女たちの、生命(いのち)の燃やし方なのだ。

ならばもう、凹んでる暇も、悩んでる暇もない。
そんな暇があったら、「Wake Up, Girls!」が何を考えて、何を感じて、何を伝えたくて、どんな景色を見ているのか、そして自分に何ができるのか、考え続けるしかない。

そして、いよいよ解散するその日を迎えて。
大事なのは、「Wake Up, Girls!」のメンバーやスタッフはもちろん、当事者である僕らワグナー自身も「幸せであったかどうか」だと思うのだ。

作中で島田真夢から幾度となく語られた「幸せの定義」。
彼女はまず、「自分を幸せにする」ことを選んだ。
「自分が幸せでないのに、人を幸せにできない」という考え方は、吉岡茉祐も初期から掲げていた。

2019年3月。
目の前には、どんな景色が広がっているのだろう。
今ではまだ、全く想像もつかない。
けれど間違いなく、僕は自分自身に問うだろう。

「Wake Up, Girls!を好きになって、幸せだったか?」と。

この問いに、心の底から頷ける未来であったらいいなと強く思う。




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